ここのところ日本では急激にベトナム観光がブームになっているようで、毎日のように観光名所の質問を受けます。ベトナムと言えば、やはり北はハノイ、南はホーチミンが名だたる2大都市です。今回はまずハノイを訪れる方のための総花的なご案内レポートを付記しました。これを知っているか知らないかでまったくベトナムの醍醐味が違います。ご質問大歓迎であります。
ハノイ案内
ベトナム社会主義共和国の首都であるハノイは、ベトナム北部最大の都市であるが、人口は約300万人、面積は918km2とホーチミン市の約半分の規模である。市内には、Hoan Kiem, B Dinh, Hai Ba Trung, Dong Da, Tay Ho, Cau Giay, Thanh Xuanの7つの行政区があり、郊外にはSoc Son, Dong Anh, Gia Lam, Tu Liem, Thanh Trizの5つの県がある。ハノイ市全体からみた人口密度は17,125人/km2だが、市内中央部にあるHoan Kiem区は37,265人/km2と全国でも最も人口密度の高い地区である。
ハノイの気候の特徴は、1年の気候が寒暖・湿乾で2分されることである。5月から9月までは暑く、雨が多い。11月から3月までは寒く、乾燥している。 4月と10月は、2つの季節の移行期で、あたかも日本の春、秋のような気候となるので、ハノイでは日本の四季のような季節を感じることができる。5月から 8月までの猛暑期には気温が38℃になる日もある。寒期の平均気温は、18℃程度であるが、1955年1月に最低気温2.7℃を記録したこともある。
ホーチミンと比較して、経済的にも地理的にも半分程の規模のハノイが今日でもベトナムの政治、経済、文化、交通面の中心である理由は、以下紹介する通り有史以来ベトナム民族の歴史に最も深く関わっていることによる。東南アジア全体からみてもハノイは現存の最古の都市である。
遥か2千年以上の昔からハノイ周辺がベトナム民族にとって中心的な地域であった。ベトナム建国王朝AuLac国の安陽王はハノイ対岸のコ−ロア(古螺)に都市を築いた。紀元前179年に前漢の支配以降も交趾と呼ばれたハノイ近郊地域が交易都市として繁栄している。紀元後40〜43年には徴側、徴弐の姉妹の反乱で一時的に独立した際もハノイ近郊(メリン県)が首都とされた。
544年から602年までの間、リ・ビ−(李賁)王が建てた万春王国(前李朝)の首都はロンビィェン(龍編)とよばれ、タインチ−県にあったと推定されている。8世紀に再び独立を達成したフン・フン(Phung Hung)は、ハノイに首都(大羅と呼んだ)を置いた。10世紀になると曲(Khuc)氏一族、楊廷芸(Duong Dinh Nghe)もハノイに都を置いた。
938年にゴ−クエン(呉権)はバクダン(白藤)江で中国の侵略軍を破り、コ−ロアを首都にして独立した。いままでの楊廷芸などが中国から爵位を授けられていたのと異なり、きっぱり中国から独立の意志を表明したので、ベトナムはこの時点より初めて紀元前2世紀からの中国の支配から完全に脱したとみなされている。
しかし呉権が没した後、国内は12人の士豪の権力者が闘争する12士君の抗争時代となった。十二士君のひとりのディンボリン(丁部領)が全土を平定し、ハノイから南に120km離れているホアル−(華閭)を都に定め国名をダイコ−ベェト(大瞿越)とした。ベトナムが丁部領によって統一されたのと同じ頃に中国においても趙匡胤が五代十国の時代に終止符をうち宋王朝を建設した。丁氏は宋に使者を送り宋から交趾郡王に封ぜられた。その後丁氏に内紛が生じたのを利用して宋はベトナムを侵略したが、レホアン(黎恒)将軍によって宋の水陸軍は全滅した。契丹の脅威をうけていた宋はベトナム征服をあきらめ、黎恒をベトナムの支配者と公認し、前黎朝が成立した。黎恒が死ぬと第五子の竜錠(Long Dinh)が、即位した第三子を殺して王位についたが、彼はサディズムと淫乱の傾向があり、また酒に耽ったせいで痔が悪くなり、横臥しながら謁見をあたえたので臥朝(Ngoa Trieu)とよばれた。彼は俘因を川のなかの水牢にいれ、潮が満ちるとともにうめき死ぬのを見て喜んだり、宮中の宴会に諸王を招き、猫を食わせ、食事が終わってからその頭を示したり、ヤモリをなますにして侍臣に食わせたりした。彼は在位4年後、24歳で死んだ。王が死ぬとその子が幼かったことと、人々が極端に王を嫌っていたため、死後すぐに大官たちは、黎朝を倒し、親衛隊の指揮官の李公蘊(Ly Cong Uan、一般には李太祖Ly Thai Toと呼ばれる)をたてて李朝を成立させた。李公蘊は即位すると都を不便な山地のホアル−から、平地で交通の要衝であるダイラ−(大羅)城(=ハノイ)に移した。彼を乗せた船が城下に達したとき金色の龍が川から現れ空へと昇っていったので、彼はダイラ−をタンロン(昇龍)と名付けた(1010年)。李朝は、1009年から1225年まで続いたベトナム初めての安定した長期王朝であった。
1225年から1400年まで続いた陳朝もタンロンを都とした。1400年から1407年までの胡朝は、タインホアを首都にしてタイド−(西都)とし、タンロンをドンド−(東都)と呼んだ。元が滅びた後明の太祖が天下を統一し、やがて永楽帝が帝位につくと、南海に向かって国威を伸張させようというもくろみが、終に1406年に明軍とベトナム軍との衝突となった。1413年には4百数十年ぶりに再び中国の直轄領となった。明はベトナムを内地化するために徹底的な同化政策をとったが、タインホア省の土豪のレ・ロイ(黎利)が1418年に抗明の旗を挙げ、1427年に抗戦10年の後国家の統一と民族の独立をかちとり、よく1428年4月にレ・ロイは、東京(トンキン、すなわち今日のハノイ)で即位し、国を大越と号した。黎朝は、1527年に一旦莫朝に王位を奪われたが、1592年再興しハノイをドンドー(東都)として1788年まで存続した。
1771年に西山の乱という空前の大反乱がベトナム南部ビンディン省から起こり、西山軍は首都をビィンディン省クイニョンに置き、1789年にハノイが陥落し黎朝は1793年に滅亡した。しかし西山の乱は30年後の1802年に平定され、1802年にベトナム最後の王朝である阮朝はフエを首都に定め、ハノイは北城と呼ばれ地方都市となった。1831年明命(ミンマン)帝によってハノイ(河内)と呼ばれ、1884年から1953年までは仏印インドシナの首都として、その後ベトナム民主共和国、今日もベトナム社会主義共和国の首都としてハノイの地名が定着している。

